私設・高等学校図書館論 7

ここで言っておこう。肝心なことだ。忘れてしまう前に。
全国の教員養成大学で、どのように学校図書館のことを教えているのか。「学校教育に欠くことができない基礎的設備」だということを、どのように教えているのか。
「教育法規」をサラッと教える中に「学校図書館法」もありましたかね。その程度だっただろうか。そうではなく、「教授法すなわち具体的な指導方法のひとつとしての図書館を使った授業の仕方」が教員を目指す学生にきちんと教えられているのか、いないのか。
全国の教員養成大学を調査して欲しい。すでに調査されているのなら教えてほしい。多分、教えられていない。教えられていれば、学校図書館に無関心な教員があんなにいるわけはないと思う。実は、私は、ここに現在の学校図書館の諸問題の根源があると思っているのだ。

これらの調査や実践例の網羅的収集を行う「全国学校図書館悉皆調査」の調査員とその編集スタッフが「近未来の学校図書館をつくる」推進力に間違いなくなる。この作業は、そういう人材を育てる学校に必然的になるからだ。そんな熱意のある若者の10人や20人、日本は広い、必ずいると信ずる。彼らが「チームオールジャパン」を土台で支えるのだ。

現在はICT(Information and communication technology)社会、このすぐれた技術を駆使すれば、上の作業も、それほど大きな予算と時間は食わないかもしれない。要は絵図を誰がどのように書き、監督を決め、選手を招集するかだ。プロ野球の「侍ジャパン」が若い小久保裕紀を監督にしたように、若い監督を選びたい。

「全国の学校図書館の悉皆調査」すでに何回も行われたであろうか?私は知らない。文献名すら知らない。それが活用されたことがあるかないかも知らない。

自己中心主義の私は、だから言う。既成の組織を使うのではない、もちろん、協力をいただくのはいいが、自前の組織をつくることが肝要なのだと。
編集作業をした結果を出版することが大切だと信じる。数字羅列の調査報告ではダメである。単なる事例報告書になってもダメである。若い監督が選んだ選手が、数字と事例を咀嚼し、議論し、学校図書館を活性化する具体的提案を行う出版物をつくるのだ。これは「中小レポート」に匹敵する学校図書館界を革新するエポックメイキングな出版物に必ずなる。一斉講義式ではない図書館を使った授業の面白さと効用を教師に理解していただくための「テキスト」になる。

ここで、私、シロウト丸出しでウカウカと「編集し活字化したものが「中小レポート」に匹敵する学校図書館界を革新するエポックメイキングな出版物に必ずなる」と書いた。
時代が見えていないバカモノの暴言だ。現在と「中小レポート」が出た1963年の違いが意識できていない。参考までに国会図書館のOPACで「キーワード学校図書館、出版年1960−1965と2007−2012」で蔵書数比較をすると前者46件、後者221件。圧倒的な違いがあることがわかる。それに現在はネット社会。「学校図書館」を検索窓に入れてみると178万件にヒットする。「物が溢れ過ぎていて、欲しいものが見つけられない」社会になっているのだ。ついでに「日本書籍総目録Books.or.jp」で現在入手可能とされている出版物を「学校図書館」で、検索すると163件にヒットする。その中には、私が主張している「教育を変える学校図書館」や「学校図書館を活用した授業の実践事例集」も、数点出ている。そんなところに出てくる本が「エポックメイキングな出版物」になるわけはない。これが常識というものだろう。

そこで、少しだけ発言に条件をつける。拡散する関心を一点に集中させることができるならという条件をつける。
この集中させる仕掛けが、「チームオールジャパン」の編成なのだ。プロデューサーに人を得て、監督を選び、熱意ある選手を集めることが出来たなら成功する。これは鳴り物入りで派手に派手にして、全国をいくつかの地域に分けて、自薦他薦で選手を選ぶ。具体的な調査項目・方法等は選手たちチームに任せるのがよかろう。合言葉は「子どもたちに分かる喜びと笑顔を!」だ。

3−2 学校図書館を変えるのは情熱だ。熱情だ。

今『傷だらけの店長―それでもやらねばならない』(伊達雅彦著 PARCO出版 2010)を読んでいる。半分まで読み進めたところだ。新潮文庫でも最近出したから、それなりに読者を掴んでいるのだろう。
書店の店長が、日常を綴ったものだ。「新文化」連載記事だったから、47に区切られていて読みやすい。ぜひ読んでみてほしい。そうして著者である店長の「情熱」を感じてほしい。単純で馬鹿な私はこの著者にいま影響を受けて、皆さんに「情熱」を感じてほしいと言っている。
彼の働いた街の本屋さんは大型書店につぶされた。その大型書店もやがて・・・、さらには出版社もやがて・・・物理的な本がなくなっていく・・・。
学校図書館もデジタル教科書につぶされるかもしれない。それでもやらねばならないことがある。

学校図書館界を革新する画期的な出版物をつくろう!それは「教科書」ではない。なによりも「実践の書」でなくてはならない。実践者の背中を押すものでなくてはならない。つまり、教師に喜んでもらえる書物でなくてはならない。「ああ、そうか!わかった!」という生徒たちの笑顔をたくさん見るためにつくらなくてはならない。

学校図書館を変える主役は教師である。司書教諭でも学校司書でもない。一般の教師である。その一般教師に向かって「ああ、そうか!図書館ってそのためにあるのか!」と納得していただく実践の書をつくらなくてはならない。

司書教諭向けや学校司書向けの本はいくら立派なことが書かれていても、そこで「隔離される」のではないのだろうか。
それをこの10年が示しているように思う。そう思はないだろうか?「正しい理論は、間違った現実を正していく力を持つ」ことを否定しない。否定はしないが、理論が、現実を好転させないのなら、どこに問題があるのかを探るのが学問することの本当の意味なのではないだろうか?

私は、立派な教科書を書いている若手のなかから絵図の書き手(=学校図書館界を革新する実践の書のプロデューサー)が出てほしいと願っている。熱意のある若者が必ずいると信ずるのだが!!(どこかの馬の骨トウシロウの大言壮語にのるほどの馬鹿はいないだって!大言壮語につきあうためではない。「子どもたちに分かる喜びと笑顔を!」だ。

次は、この実践の書のプロデューサーが見つかったとしても、雇い手がいなければ、動けない。雇い手は「全国学図書館協議会」か「日本図書館協会学校図書館部会」か?現実問題として、今のJLAには荷が重いか?SLAについては私は不案内で・・・。
大言壮語のトウシロウ、そこでこの両者が加盟している「学校図書館整備推進会議」はいかがかなと愚考した。「当会概要」によれば
学校図書館の整備・充実を図るために必要な研究活動・情報交換・広報活動・調査活動」、「国および地方自治体が、学校図書館の整備・充実のための短期または中・長期の思索を策定し、実施するよう、国会・地方議会・関係行政機関・関係団体等に要請活動」を行うことを「要項」に定めました。」
とある。まさに打ってつけの団体ではないか、ここに決めたと大風呂敷広げるだけ広げたところで、次回からは、もう少し、小ぶりの風呂敷を、それも謙虚におそるおそる広げようと存ずる。
でも、そのまえに、つまり大言壮語を封印して、おとなしく、現状に向き合う前に、若干の大言壮語続編と復習編を・・・。それは、また、明日。